春のぬくもりをおすそ分け。菜の花でつくる「松ヶ崎の花漬」を知っていますか?

京都に全国的な知名度を誇る漬物は数あれど、松ヶ崎で受け継がれてきた「松ヶ崎の花漬」を知る人は多くありません。春の訪れを告げる菜の花を使ったこの伝統の味が、松ヶ崎でどのようにつくられ、地域にとってどんな意味をもっているのかを取材しました。

地域に伝わる伝統食「松ヶ崎の花漬」

「妙」「法」の送り火で知られる洛北の町、松ヶ崎。住宅地に点在している田畑は、毎年春の端境期を迎えると一面が菜の花で彩られます。田園風景に鮮やかなコントラストを生み出す菜の花は、行き交う人たちの目を楽しませてくれるだけでなく、地域の伝統食である「松ヶ崎の花漬」の原料としても使われています。
地元では「花漬」の名で親しまれているこの漬物は、程よくまとった色艶とまろやかな塩気、さわやかでコクのある風味が特徴。ごはんのおともにも、お酒のおつまみにもぴったりで、地域の人たちにとってなくてはならない春の味覚です。

松ヶ崎で代々農業を営んできた岩﨑さんも、毎年自家で松ヶ崎の花漬をつくっています。「うちは上下にぬか入り袋を入れ、塩をもんで漬け込んでいます。塩だけを使った浅漬けもある。漬け込む部分や時間でも味は変わります。家ごとにつくり方や味が違うのが、松ヶ崎の花漬なんです」。
松ヶ崎の花漬は卸や小売店に出回ることが少なく、現在は京都でも知る人ぞ知るローカルフードになっています。

農薬を極力使わない岩﨑家の花漬づくりはテレビにも取り上げられたことも。

松ヶ崎百人衆が拓いた、由緒ある米づくりの村で

松ヶ崎はもともと米づくりの村として発展してきた土地で、平城京時代に天皇に献上する米をつくっていた百姓百軒が、平安遷都に合わせて移り住んだことが松ヶ崎の起こりとされています。

岩﨑さんは「音吉」という屋号ももっています。屋号は「松ヶ崎百人衆」をルーツにもつ人たちの間で使われはじめたもので、今でも互いを呼び合う際に苗字ではなく屋号が使われることもあるのだとか。

松ヶ崎の花漬の発祥も、地域で盛んだった農業と密接に関係しています。もともとは米や麦を中心とした二毛作の間の短い時期に、菜種油をつくるために菜の花を植えるようになったとされており、明治期になると菜の花をさらに有効活用するために、漬物づくりが広まりました。

昭和30年代まで、松ヶ崎では下鴨あたりの町家から肥料となる下肥えをもらっており、松ヶ崎の花漬はそのお返しとして使われ、大変喜ばれたといいます。今では下肥えをもらうことはなくなりましたが、お世話になった方への贈答品として使われているあたりに、当時の名残が見てとれます。
また、松ヶ崎では伝統的に振り売り(家の男性が作物を育て、女性が周辺の住宅地に売り歩く京都特有の商い)も行われており、松ヶ崎の花漬は米や野菜と並ぶ商材としても利用されました。農村でできた農作物や漬物が町の人たちの食材になり、町で出た下肥えが作物を育てる。松ヶ崎の花漬の歴史を遡れば、かつてあった循環型社会のあり様が見えてきます。

必要な分を摘み終えて残った菜の花は、畑に鋤き込まれ、土壌の養分になります。

「地域の伝統食」がもつ本来の役割

こうして続いてきた松ヶ崎の花漬づくりは、地域の小学校の食育教育を通して子どもたちにも受け継がれています。また、岩﨑さんも「菜の花は生命力が強いから、そんなに手間はかかりません。うちは親から受け継いだ作り方しか知りませんが、作ってみたいという人がいたら、ノウハウを教えたいと思っています」と、地域の食文化を伝承することに前向きな姿勢を見せます。

一方で、他の京漬物のように、ブランド化が十分に行われているとはいえません。「次の稲作まで暇がない年なんかは、花漬けはさっと切り上げて、残った菜の花は田んぼに鋤きこんでしまいます」と岩﨑さんが語るように、松ヶ崎の花漬はあくまで二毛作の間の期間を利用してつくられるものと位置づけられています。

「独自の食文化を広く発信し、地域の活性化につなげる」という、現代的な考え方に沿わない面もありますが、「今年はええ色に仕上がった」と、手づくりのおいしさを手渡しで届けるような、温もりのある距離感が今もなお残されています。
かつては農村と町をつなぎ、現在ではコミュニティをつないでいる松ヶ崎の花漬からは、「地域の伝統食」が本来果たしていた役割を見て取ることができます。

松ヶ崎支部 岩﨑正彦さん
JA京都市松ヶ崎支部

松ヶ崎の地で代々農業を営む。「妙」「法」の送り火や松ヶ崎題目踊りをはじめ、地域の伝統文化の継承や歴史保全を行う「公益財団法人松ヶ崎立正会」の活動にも携わる。

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